aai oua に寄せて、あるいは寄せずに

 

 

 

【1】

壁がある。壁が見える。光があって反射すれば。あるいは壁にふれることができる。物理的に存在し、手でふれられれば。とりいそぎそこに壁があるといえるだろう。

 

【2】

でもどうだろう、粘り気のある絵具と柔らかい筆で、壁を見ながら壁に触れる画家にしてみれば、それはどうやって存在するのだろうか。

 

【3】

壁はずっと遠くにあっても壁だ。見られる限りにおいて。あるいは、壁はほとんど目と鼻の先にあったとしても壁だ。触れる限りにおいて。というのはほんとうだろうか。あまりに遠くの壁は、たとえ見えたとしても、それはまったく別物だろうし、あまりに近い壁はもはや壁ではない。

 

 

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【4】

佐々木耕太は部屋や建物を手がかりにする。平面図だったり、あるいは部屋の模型を作り、コンピューター上で3Dのモデルを作る。光源の位置によって変化する光と影の入り方をいく通りもシミュレーションし、写真に残したりする。そうした操作から絵画の制作が始まっている。というより、そうした操作のなかに、近さと遠さが、目の前の現実と仮想的な空間の揺らぎが生まれてくる。たとえば今回出品されている作品の壁の、その表面があたかも斜めに傾き、剥がれているように見えるとしても、フラットなムラのない色面で描かれたそれは、むしろ私たちに正対して、まったく真正面にある。奥行きと正面性が分たれることなく、ある。あるいは、分たれているのに、重なる。

 

【5】

遠くて近い壁。目の前に「ある」のに、同時に仮想的でもある空間。あるいは、目の前に「ない」のに、同時に物理的に存在している空間。

 

【6】

今回の展示作品の場合、佐々木が描いているのは自らのスタジオである。ということは、想像してほしい。佐々木は制作するなかで、自らを取り囲む空間の、その中にいながら、その外にも同時にいるような時間を過ごすことになる。佐々木はそれを、ときに筆跡を消すように、ときにそれを顕に、黙々と筆を運びながら、壁が目の前にあるのと同時に頭の中にしかないような、壁が近くにあるのか遠くにあるのかわからない、そういう幻惑的な体験をしているはずだ。そうして描かれた絵画は、それを見る私たちにも同様の経験を迫る。絵具の載せられた高質な下地(地塗り)の余白は絵画を取り巻く壁をなおさらに意識させるだろう。

 

【7】

わずかに塗りの痕跡を、つまりかつては柔らかな絵具だったことを示す部分と、硬質で物質的な、あえて露呈する地塗りの組み合わせ。

 

【8】

仮想と現実。いまだかたちならざる絵具と、その結果。ここで作品を目にしている私たちと、現実の空間を想像している私たち。二次元の平面図を見ているだけで、なぜそこに空間が立ち上がってしまうのだろう。

 

【9】

したがって、一方で自らのスタジオをモチーフにしながら、他方で遠くの(海外の?)ギャラリースペースを題材にするのはまったくもって当然のことだ。もしかしたら彼はそこに行ったことがないかもしれない。むしろその行ったことがないギャラリースペースの写真や図面を頼りに空間を立ち上げていきながら、また二次元に還元するような操作のなかに、作品を作ることと見る(見せる)こととが、近さと遠さとして重なって現れる。それはまたスタジオをモチーフにした作品へと視線を送り返す。非人間的な距離をも超えて接続しようとする「仮想的」な、あるいは「想像的」なものとして絵作りがある。

 

 

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【10】

花木彰太の絵画はここで、勝手に、すでに立ち上がっている。というのは、ちょうど切妻屋根を倒して壁につけたような、画面の真ん中が手前に迫り上がっていて、左右に画面が分たれている。そこでは刷毛目も明らかに ― 刷毛 - 目? ― 、塗りが施されていることはある距離から眺めていればわかる。一方で、左右の色が巧妙に塗り分けられていることは、照明や自然光の具合で一目ではわからないかもしれない。でもいちどそれに気がつくと、絵具の色面と反射光の、そしてそれを受け取る私たちの目の、そのいずれを信頼すべきか、わからなくなる。とはいえ、それらをひとまず置いて、ちょっと下がって見てみれば、不思議と画面の立体感は消えて、ペタッとした平面にしか見えない。ある程度距離をおいてしまえば、画面そのものの立体的な構造も、その表面の刷毛目も消えてしまう。あるいは、立体的な構造と平面的な色面が重なる。

 

【11】

遠くて近い壁。目の前に「ある」のに、同時に現象的でもある色面。あるいは、目の前に「ない」のに、同時に視覚的に存在している色面。

 

【12】

今回入り口からすぐの、二つの壁が接するところ、その接線を消すかのように置かれた縦長の作品は現実的な奥行きを刷毛目が消す。刷毛目が現実的な力として奥行きを消している。したがってそれはある程度の距離から眺められることを基本的には求めている。刷毛目は必ず見えなくてはならない。瀬戸でも階段の踊り場という引きの取れない空間に展示されていたことを思い出そう。

 

【13】

わずかに塗りの痕跡を、つまりかつては柔らかな絵具だったことを示す部分と、硬質で物質的な、隠れた支持体の組み合わせ。

 

【14】

仮想と現実。いまだかたちならざる絵具と、その結果。そしてここで作品を目にしている私たちと、作品を目にしながらほんとうにそれが見えているのかわからなくなる私たち。三次元の絵画を見ているはずなのに、なぜそこに平面的な色面が浮かび上がってくるのだろう。

 

【15】

したがって、花木が星座を頼りにするのはまったくもって当然のことだ。星座が、つまりまったく違う遠さにある星々が、一直線に並んで見えたり、それこそ人や動物のかたちに見えたりする、現象を介しながら私たちの視覚と想像力によって生み出されるイメージだとすれば、花木がここで見せる刷毛目もまた、そうしたものとしてあるだろう。つまり、非人間的な距離をも超えて接続しようとする「仮想的」な、あるいは「想像的」なものとしてストロークがある。

 

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【16】

壁はずっと遠くにあっても壁だ。見られる限りにおいて。あるいは、壁はほとんど目と鼻の先にあったとしても壁だ。触れる限りにおいて。というのはほんとうだろうか。あまりに遠くの壁は、たとえ見えたとしても、それはまったく別物だろうし、あまりに近い壁はもはや壁ではない。

 

【17】

遠い、あまりに遠くてもはや距離が失われてしまうところ。逆に近く、あまりに近くてもはや距離が失われてしまうところ。その無限=夢幻にも思えるあいだ。

 

【18】

なぜこれほどまでに距離が重要なのだろう。中間なき時代に中間を立ち上げること、彼らの絵画制作をそう名指してみよう。彼らの絵を見ているとき、あなたはいま、どこにいるのだろう。

 

 

鈴木俊晴(豊田市美術館学芸員)